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しかし、ただヒトという生き物だけがこうした種属維持のしくみの例外である。おそらく人間と動物のほんとうの違いは、よくいわれるように人間だけが道具をつくるだの言葉を話すだの精神をもつだのということにあるのでなく、種のために個体が犠牲にされるという生存のあり方をやめたという点にあるのだ。そして生存の意味と目的を自然の手から人間自身の手へともぎ取ったという点に…。
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たとえば、生まれてから死ぬまでひたすら巣に食料をはこびつづけるアリたち、くる日もくる日も花からミツをあつめて営巣するハチたちは、いったい何のために生きているのだろうか?… こう問うことは、宇宙はなぜあるのか?と問うのとおなじく無益なことである。かれらはただアリやハチという生物種を存在させ、そして子孫をつくってこの生物種を将来に存続させるためだけに生きている。生物個体の存在意味はかんぜんに種属の保存という「自然の目的」のなかに呑み込まれてしまっているのである。これはすべての生物について言えることだ。しかし唯一人間だけが個体としてみずからが生きるための意味と目的とをもっている、あるいは持とうとする。われわれ一人ひとりが自分に独自な意味と目的を必要とし、それによってはじめて生を成り立たせるのである。それゆえに人間はたんに生きるのではない。生を導き、形成するのである。
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人間はたんに社会や国家、あるいは人類を存続させるためにあるのではない。もちろん社会や国家をぬきにした個人の生はありえないが、しかしそれらは結局のところ人間一人ひとりの幸福のためにあるのである。人間はたんにそれらの交換可能な「部品」やただの《あやつり人形》ではない。こうしてただ人間のみが個体(個人)の次元に生存の目的と意味とをもっている。個人を犠牲にしたところで成り立つような、生物種としてのヒトの意味など存在しないのである。そしてわれわれが「民主主義」とよぶものは結局のところ、こうした人間のあり方そのものの表現以外の何ものでもない。それは「…主義」という接尾語がふつう意味しているような、特定の価値観やいわゆる主義(「…イズム」)ではない。それは、個としての生存と種(正確には「集団」)としての生存と(いうほんらい宥和しようのない二つのもの)を調停させようとする人間の努力のありかたなのであって、その意味でそれは人間の生存の《普遍的な》構造を表わしている。いくら人間がみずからに独自の意味と目的とをもっているといっても、たしかにそれはいつも集団の意味と目的のなかに巻き込まれざるを得ない。
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民主主義とは、集団の意味と目的を決定することにすべての人間があずかるための ─── あるいは、より現実的な言い方をすれば、おのおのの人間が、いわば納得ずくでそうした集団の宿命を同時にみずからのものとして背負い込むための、選択と承認の手続きをさすのである。それはようするに種属集団が個体を黙殺しないしかたで抱え込むという事態であって、政治制度だの投票権だのは枝葉のことがらにすぎない。だから、矛盾するようだが民主主義は特定のごく狭い圏内でしか(つまり同質的な土壌のうえでしか)成り立たない。集団の意味と目的にかんして、人々がまったく異なった、相い反する考え方や価値を奉じるばあい、どの価値が選ばれてもそれを自己の宿命として背負い込むことを拒否する人間がたくさん出てくるからである。 …ただし以上は余談である。
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くりかえせば、唯一人間という生き物だけが、生きるために自分に固有な意味と目的とを必要とし、それによってはじめて生を成り立たせる。人間は、みずからに生きるための理由をあたえる、という仕方でしか生き得ないのだ。つまり人間は、生きるために何がしかの《意味づけ》を必要とするのである。だが、そもそもわれわれが人生を生きることに何か定まった意味があるのだろうか?ふつうものごとの意味や価値は、そのものごとが他のものごととどのような関連を持つかで決まる。つまり、意味や価値はその外部に立つことができるようなものについてのみ言える。しかし、われわれにとって生の外部など存在するだろうか?もちろん「ノー」である。われわれは人生の外側に立つことはできない。(人生の外側に出た時はもう生きていないわけだから、「外部に立つこと」にはもはや意味はない。)
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だがそうなれば、われわれの生は上述のアリやハチと何ら違わないものになってしまう。 しかしこのことは、既 成の意味づけが存在しえないということであって、われわれが意味を必要とするという事実そのものに抵触するものではない。あるいはこう言い換えてもいい、われわれは生きるために「物語」を必要とする、と。自然は動物たちのように、われわれの内にそれを《本能》という形であらかじめ書き込んではくれなかった。いわば未完のシナリオを演技者であるわれわれ自身が演じつつ書かなくてはならないのである。 もっとも、現実にはわれわれ人間は長いこと、その必要性を意識することがなかった。
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だが、結局それは人間が自分自身でかってに作ったシナリオではないのか?そして人間はついに自分でそのことに気づいたのではあるまいか?(人間をつくったとされる神様は、じつは人間自身の創作だったのだ。)ながらく人間はおのれ自身の創作行為を神話や宗教というものに「疎外して」きたのであり、そのことで自分には生きる意味が《確固として》あたえられていると信じ込んできた。その「からくり」を近代の人間はいわば自らに暴露したのだ。
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それで何が悪いのか?と開き直ればそれまでだが、しかしここには、それで片づかない由々しい問題がある。すなわち、生きるために人間には人生を導く目的が、意味が必要なのだが、困ったことにそんなものは何処にもないからである。いや、正確に言えば「ない」わけではない。人生には何ら既 成の意味づけは存在しない、というだけである。だからそれはわれわれ自身が随意につくり出せばよい。いかに生きるかは根底からまったくの自由なのだ… こう考えれば結構づくめのように聞こえるが、しかし、生き方は随意に決めることができる、どう生きても良いということは、裏を返せば、いかなる生き方にも絶対性・必然性はないということである。生の相対性の自覚は、生の恣意性という意識を生む。何をやっても所詮はおなじだとすれば、BでもCでもDでもなくまさにAこそを為すべきなのだという必然性をもった動機など生まれない。つまり、真剣に生きようという意欲は湧いてはこないのだ。
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さほど難しい話をしているわけではない。われわれは今日でも、とりわけ困窮した折など神仏に手を合わせて、家内安全や無病息災を祈るが、しかし「お賽銭」を少々はずんだからといって、このさき商売がうまくゆくようになったり、交通事故に会わずにすむようになる、と本当に信じているだろうか?内心では、神社のカミサマやお賽銭にはあまり効き目がないとうすうす感じているはずだ。神仏(あるいはその観念)はもはや、われわれの生活全体を拘束力をもって左右する力を失ってしまった。われわれは、そうした観念に振り回されずに自由に生き方を決めることができる。だから気が向いた時にだけ、われわれは神仏に手を合わせたり、賽銭箱に金を投げ入れたりする。神仏を拝むも拝まぬもわれわれの自由なのだ。しかしこの自由は、神仏の観念がもはや絶対性を持ちえないという事実の裏返しなのである。心底窮迫し、打ちひしがれた時にわれわれは何にすがり、何に救いを求めればいいのか?そういうものがもはや何もない、ということなのだ。
根底的な意味での「自由」とは、それゆえにネガティブなものである。それは人間にとって重荷なのだ。
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人間のような生活は疲れるからもう無理。
人間って本当に疲れる生き物ですよね。
動物は弱肉強食だからもっと大変だよ!と思われるかもしれませんが、人間も実は弱肉強食ですから。
それプラス、頭が良くなればなるほど色々な事が出来ちゃいます。
頭が良くなれば良くなるほどそれだけ考える事も多くなっちゃいますし、良い事も悪い事も全部見えてしまう、それって非常に疲れます。
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