038 漢王朝を興した劉邦の正妻呂后は夫の死後、自分が生んだ劉盈(恵帝)の地位を脅かしかねないと、劉邦の側室であった戚夫人の手足を切断、更に薬物による会話能力破壊・聴覚破壊、眼球までくりぬき、生きたまま便所に配置し「人豚」と称して晒し者にしたとされる。これは『史記』に記載され、呂雉の残忍さを表すものとして有名な逸話であるが、当時の医療技術でそのまま生存させることが可能だったかは疑問である。 中国史上、唯一人の女帝である武則天も、亡夫高宗の寵愛を争った王氏(前皇后)・蕭氏(前淑妃)両名の四肢を切断後、「蟒」・「梟」と無理やり改名させるという恥辱を与え、処刑したとされる。 匿名さん2015/04/09 14:47
039 清王朝末期、皇帝の寵愛を受けていた麗姫は西太后に妬まれ、だるま女にされたといわれるが、これは完全なフィクションであり、呂后や武則天と混同されているにすぎない。1985年に日本で公開された中国映画『西太后』のラストでこのシーンが出てくるが、実際の麗嬪(麗妃)は咸豊帝の唯一の娘・栄安固倫公主を生み、咸豊帝の没後も後宮で静かな余生を送った。同治、光緒期には麗皇貴妃、麗皇貴太妃に加封され、1890年に54歳で死去した。死後、荘静皇貴妃と諡され、東陵の咸豊帝の定陵の妃園寝(側室達の墓)に葬られている 匿名さん2015/04/09 14:49