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俺の独り言!20
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これはただの独り言である!(笑)
深読みは厳禁だぜ!(笑)
誰の事でもねぇからな!(笑)
そこんとこヨロシク!(笑)
080
根本原因は、A担当医師のところでの手術を早くしたいがために、ビー担当医師の所の数値を急激に下げすぎたことによることが原因
なので、英担当医師のところで手術を無事に終えることができさえすれば、ビー担当医師の所の数値を少し緩めることができる。
数値が少し逆戻りするかもしれないけれども、
あくまで安全範囲内の中で緩めることができれば、
痛みは軽減するはず。
081
考えてみれば、今の俺はかなり幸せだ。(笑
硫黄島や大陸では大変だったことだろう。
硫黄島なんか残骸を掘って、地中に隠れて、米軍の砲弾を雨あられのように浴びていた。
硫黄島の山の形が変わってしまうほどの砲弾を、毎日朝から晩まで浴びていた。
082
みんな極度の睡眠不足だった。
灼熱の暑さの中でも睡眠不足でも、水が飲めない中でも、怪我をしても治療もできなくて、手足が剥がれても治療ができなくて、
それでもみんな戦っていた。
083
段ボールハウスに詰めて、エアコンが効いた中に入れて、水は好きなだけ飲めて、治療もしてもらえる環境に俺はいる。
硫黄島の翔平たちは、日本本土の人たちとの連絡もほとんど取れないまま死んでいった。
俺にはインターネットがあって、こうやってむーちゃん達とも話せるし、
こんなに幸せなことがあるだろうか
084
記録やちょっとした愚痴として、このスレッドにはいろいろ書くけれど、
そういう彼らに比べたら幸せなのだから、
本当の意味での弱音を吐く事はできない。
ちょっとした愚痴は言うけれど
こんな病気など大した事は無い。
病気などぶちのめすのみ(笑
085
そういえば、硫黄島の司令官、
栗林中将
栗林中将と同じ景色を俺は見ていた
086
昔習志野駐屯地は騎兵連隊が駐屯していた。
その時の馬小屋が習志野駐屯地にそのまま残っていた。
馬小屋は残っていたけど、馬は1匹もいなかったけどな(笑
そこは落下山効果訓練をする施設へと変わっていた。
087
施設としての役割は変わっていたけれど、建物の枠組みは栗林中将の時と全く同じその当時のまま
入り口も出口もあの木造の枠も全てが栗林中上が中条たちが使っていたものと当時のまま
同じ建物そのままの景色
栗林中将と同じところ出入りしていた
088
旧陸軍からの伝統は受け継がれている
089
習志野駐屯地に、空挺官と言う建物がある。
そこは資料館みたいになっているけれど、
明治天皇が習志野に来られた時の滞在した間がある。
そこの清掃を担当したことがある。
ちょっと言えないこともあるが、いろいろ面白いことがあった(笑
そういえば、明治天皇ともこういうところでつながりがあったんだなぁ
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