086 >リパ地区H憲兵の野太い声が、耳の底にまだ残っている。 >「敵が上陸するまで強姦するな。上陸したらかまわんからやれ。 >ただし、やった女は必ず殺してしまえ。」 (これは米軍のしわざと宣伝するため) 匿名さん2014/08/09 22:04
088 「敗残兵に対する住民のリンチはすさまじい」と山本七平氏が述べBC級戦犯裁判にも影響したフィリピン人の憎悪はこんなところから来たかと思わせる 虐殺被害者の家族や対日協力者への制裁の模様など当時の体験者自身がはっきりと取材に応えたりもしています。 匿名さん2014/08/09 22:06
091 マニラの軍事法廷で山下大将に対する軍事裁判が始まりました。結局は10万人虐殺の責任をとらされ、有罪判決を受けるのですが、そのさい286人の証人が法廷で、日本軍の暴虐、マニラでの虐殺行為を証言しました。 この裁判自体は、疑問があるのですが、現地フィリピンの国民はこの裁判を「正義の勝利」として歓迎しました。 彼らの脳裏には、日本軍による蛮行が深く刻まれている 匿名さん2014/08/09 22:08
092 1945年9月16日米軍調査報告が「悲しく醜き現実」と題して、北海道新聞に掲載されていました。 「軍医将校が活体解剖の実物展覧のため捕虜を使った」 「婦女子30名、男子27名、牧師1名を突き殺し次いで生きているものも死体と共に積み重ねこれを突き刺した」 「兵士が小集団をなし各部屋に入り懐中電灯で婦女子(14歳の娘まで)を運びだし・・・娘たちは終始祈り、母親達は娘達を守ろうとその身を投げ出した」 匿名さん2014/08/09 22:09
094 (フィリピン戦線で)そのマッカーサーが一時、撤退したときのことをBは得々としゃべりだしたものである。アメリカ兵の引き上げた後のフィリピンで、 日本兵は、残された者、兵士と民間人を襲ったのだ。 負傷して倒れているアメリカ兵の側に寄ると、何やら必死で命乞いをしているらしいその負傷者の頭上に、わざと大きな声で、「ワン、ツー 、スリー」と掛け声をかけ、運んで来た大きな石を何人がかりかで落とすというものだった。身動きできないアメリカ兵の傷ついた頭に向かって、日本兵は 次々と同じ方法で殺して行ったという。 匿名さん2014/08/09 22:10