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白鳩の部屋(白・ω・鳩)-9
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中学生ぐらいになると、まず家族や周りの人間に対して批判的になる傾向がみられる。相手の欠点が目について、たとえ口に出さなくても、心の中で批判の言葉をもち始めるのだ。これはいわば、人間の心の「自由」の開始点だといえる。しかし、ここでの批判は、たいていまだ不平不満の言葉である。
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「ねえ、○○っていうバンド知ってる? あれ、最高。」「そうそう、私も大好き、格好いいよね。」「あの映画見た? 私、全然だめ。退屈。」「私も嫌い。いまいちだよね。」
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嵐も来た笑( ・◇・)
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また来た〜
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中学生の間で耳にするこんな会話も、言葉が十分たまっていないために、好き嫌いの「批判」があるだけだ。「批評する言葉」にまでは成熟していない。しかし成長するにつれて、こうした感情的な「批判」は、少しずつ「批評」になっていく。
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「私はこの歌が好き。歌詞がストレートで共感できるから。」「そうね。ただ、メロディは少し単調じゃない?」「そうかも。でも、その単調さで、かえって歌詞のよさが伝わるんじゃないかな。」「それは言えるね。」
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>>84
こっちも荒れてきたから智秋のスレに移動して!
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芸能人ってこういう気分なんかな?(笑)
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単なる好き嫌いの「批判」ではなく、ここには好きと嫌いの理由が入っている。好き嫌いの理由がきちんと言えるようになると、「批判」は「批評」に近づく。「批評」とは、自分なりの価値基準の根拠を明確にして、物事を評価することである。そのためには、自分の感受性や考えを的確に表現できるだけの言葉がたまっている必要があるのだ。
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批評ができるようになると、友達どうしの関係も変わってくる。単に趣味の合う者どうしではなく、趣味の違いを受け入れ合えるような関係になるのだ。友達どうしで批評を交わし合うこと、それは単に自分の考えを表現するということではない。互いに「自己ルール」を交換し合うということである。「自己ルール」とは、その人がそれまでに身につけてきた「よい・悪い」の判断や美意識の価値基準の根拠のことだ。大切なのは、いろいろなものを批評し合う中で、友達と自分の「自己ルール」を確かめ合い、認め合い、そして調整し合っていくということなのである。そこに、人間どうしのコミュニケーションの内実がある。
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