河本があっさりと賛成したので、井出も海部も異論はなかった。河本はすでに
ー反主流派に屈してはならない。
という肚を固めていた。
河本敏夫は佐藤内閣の43年に郵政相として初入閣していながら、これまでは目立たない地味な存在であった。もちろん
ー独特な商法で業績を上げる三光汽船のオーナー。
ー日本のオナシスといえるほどの資金力を持っている。
ー三木派の政治資金は河本一人で引き受けている。
そういう話は政財界に聞こえながらも、政界では三木の陰の人に徹していた。めったに笑顔を見せないところから、 “ワラワン殿下” とあだ名されているくらい、人に愛想をみせることもなく、つまりは求めるところなく過ごしてきた。
それが三木内閣が誕生すると、主要ポストの通産相として登場した。
ー三木の論功行賞人事。
といわれた。ジャーナリズムは、あこぎともいわれた三光商法への疑惑から
ークリーン三木内閣の濁一点。
などと書き立てた。野党は予算委員会でジャパン・ライン株の買占め、脱税容疑、三光の株価操作への疑惑などの追及を始めた。

政府自民党首脳は密かに冷汗をかきながら ことの経過を見守ったが、当の河本は表情ひとつ変えることなく どっしりと構え、快刀乱麻といった調子で野党委員の質問をほぐし 追及を交わし切った。
ー相当な人物。
という評価をかち得た。と同時に
ー生きた経済がわかる政治家。
として、新日鉄社長の斉藤英四郎、野村證券会長の北裏喜一郎、日本精工会長の今里広記たち40数名が、 “応援する会” をこしらえるまでになった。
河本は兵庫県揖保郡神戸村生まれ。政界に打って出たのは24年、37歳の時でトップ当選した。党籍は民主党である。おいおいに
ー将来は三木派を継ぐ者。
として注目を浴びることになった。
通産相になってからは通産官僚たちも、その識見に一目二目を置くほどになっている。また切れ者の中曽根や、田中派の二階堂進あたりも
ー河本は相当な人物。
と評価している。
一見したところ無口で温厚な紳士に見えながら、その芯は硬骨漢である。三木おろしに臨んでも、河本は
ー強行突破でいく。
という賭の構えに終始し
「総理、絶対に折れてはなりません」
と強気を押し通した。

それにしても今こういった政局の最中、三木があえて臨時国会召集の件を持ち出したのは、そこに三木なりの深慮の策があってのことであった。
ー反主流派が「臨時国会前に三木をおろす。三木の手では国会を召集させない」という出方をするならば、逆手を取って国会早期召集を提起し「国務優先」の大義名分で闘おう。
ー反主流派は押し返してくるだろうが、この国務優先論は必ず世論には正論としてアピールする。世論は自分に軍配をあげよう。それがこちらの強味になる。
その打算があった。三木は日頃
「党内の数でいけば、もともと三木派は小勢力だ。福田、大平派とは勝負にならない。わかり切っていることだ。その自分が政権の座につけたのも、また今まで政権を維持できたのも 世論が自分をクリーン三木として評価し、支持してくれるからに他ならない」
と洩らしていた。今度の場合も国務優先、臨時国会召集を打ち出すことで世論のバックアップを得て、反主流と闘う態勢をとる肚であった。それに
ー臨時国会召集という具体的な問題で、福田、大平を説得する。
という思惑もあった。

国務優先、国会召集を梃子にして福田、大平など反主流の大きな勢力を自分の思う方向に動かそうという作戦だったのだ。
この臨時国会の件を三木はすぐに中曽根幹事長に電話連絡した。執行部の諒解を得、さらに総務会の決定を経なければならなかったからである。
「承知しました。国務優先……ということで党に諮ります」
中曽根はそう答えた。幹事長という立場からしても
ー臨時国会は急いで開会すべきだ。
と考えていたからだ。

三木は17日の定例閣議が終わると
「大平君、一寸 残ってくれんかね」と声をかけた。大平を総理大臣室に招じ入れて、三木は
「実は臨時国会のことだが……」と話を切り出した。
「28日をめどに召集したい。できれば24日の閣議で召集を決定しようと思うんだが、君の協力を得たい」
大平は一瞬、凝然として三木の顔を見つめた。
ー本気なのか？
という思いだった。
ーわれわれ反主流派が、三木の手では国会を開かせない、国会前に退陣を求めるといっている最中、自分の方から「国会を開く」「それも急ぐ」というのはどういうことか？そんなことをすれば三木おろしは更に激化することが、この人にはわからんのか。

大平がそう思ったとしても無理はない。そう考えるのが筋であった。三木がその裏をかいて逆手をとる肚であることは、大平には読めなかった。三木は通常と変わりない ねっちりした口調で大平の説得にかかった。
「君の所管である財特法を早急に成立させたい。これは国務なんだ。荏苒と放置しておくわけにはいかん。不況対策上も急がねばならない」
「しかし……党内が今のような状況では……」
大平は口ごもった。三木は大平の肩に手を置いて
「政局のことはそれとして、国会を召集した後で いくらでも議論ができる。並行して処理できるはずではないかね」
「が、政局の方をはっきりさせないと……いくら国会を開いても党内は総理に非協力だ。審議もはかどらない。成立も保証できませんな」
「そうかねえ。すると君たちは国務優先ではなく、政争優先かね？」
じわじわと三木一流の論法で迫り始めた。
「それに大平君、財特法は君の所管事項だよ。蔵相として早急に成立させる義務があるんじゃあないかね」
「それはそうだが……」
「だから君と僕と協力して、そうしようじゃないか」

「といっても私はじめ党員が協力していけるように、首相は政局や党内の体制作りを真剣に考えてもらわねば……」
微妙な言い回しで大平は
ーあなたが退陣すれば挙党体制ができて、国会召集、財特法成立が期せられる。
という意味のことをいった。三木は
「国務優先ということと財特法成立は大蔵大臣の要務ということと……これを念頭にもっとよく考えてくれたまえ」
そういって30分にわたる会談を終わった。
大蔵省に戻った大平は、経企庁の長官室にいた福田に電話をかけて、三木との会談のあらましを伝えた。福田は
「ふうむ。臨時国会召集を三木君は急ぎ出したか……。死期を早めるようなもんだ」
と笑い声をあげた。
この日の午後、首相官邸で開かれた政府与党連絡会議の席で、三木は正式に
「この8月28日をめどに臨時国会を召集したい」
と提案した。椎名副総裁は静養中ということで欠席し、大平蔵相も風邪の気で休養という事情で欠席であった。党からは中曽根幹事長、松野政調会長、石田博英幹事長代理たち。政府側は三木首相、福田副総理兼経企庁長官、井出官房長官といった顔ぶれだった。

ー財特法は赤字国債発行の手順から逆算して、9月10日頃がぎりぎりの成立だ。
ーそれが延びた場合には特別支出でカバーできる。
そんな公式論で一時間半が費やされて、政局問題は避けて会議は終わった。
この会議の後、三木は福田を総理大臣室に呼び入れた。
「臨時国会……国務優先ということで急がねばならない。協力を頼む」
と 大平に話したと同じことをくり返した。福田は冷ややかに聞いた上で
「考えておきましょう。が、総理も政局について真剣に考えてもらいたい」
そういい置いて総理大臣室を去った。

翌18日には三木の臨時国会召集提案をよそにして、自民党は大変な時化模様であった。
福田派では在京幹部会、昼食会を開いて、そこで園田が
「今日の党の現状は放置できない。臨時国会の召集前に 人心一新による政局転換を図るべきである」
と ぶち上げた。園田の意気は 大いに揚がっていた。というのは 彼の作戦通りに
ー議員総会開会を要求するための署名。
それが この日、両院議員の三分の二を超える 270人から集められたからである。

この署名簿は明けて19日、三原や 福田派の加藤六月たち代表が自民党本部に両院議員総会長の上原正吉、幹事長の中曽根を訪ねて その手元に差し出された。
上原は福田派の人間だけに この開会要求にはもちろん賛成で、にこやかに三原たちを迎えた。だが 中曽根は
ーいよいよ 来たか……。
という思いで 気まずい表情で応対した。
三原が議員総会の開会要求を説明し
「8月24日までに開くことを要求する」
といった時、中曽根は正直に顔を強張らせた。
ー三木おろしにタイム・リミットを切ってきたか……。
中曽根は
「両院議員総会は 臨時国会が開かれるとなれば、その前か召集後の早い機会には 当然 開くべきものだ。だが この議員総会は開いた以上は何らかの成果あるものにしたい。従って いつ開会するかの時期については三役が協議して決める」
そのように答えた。確かに党則には
「両院議員総会長が両院議員総会を招集する」
とあるが、それは形式上、手続き上のことであって 日取りは幹事長、総務会長、政調会長など党執行部が決める慣例になっている。

そのあたりのことを楯にとって中曽根はそういったのだ。三原たちもそのことは承知している。
「しかし……」と押し返した。
「われわれとしては 8月24日がぎりぎりの線……政局、党のあり方について議員総会で議論できるぎりぎりの線と心得ている」
つまり反主流派は
ー三木首相は 8月24日の閣議に臨時国会召集の提案をするようだ。これをチャンスにして三木をおろす。
という作戦から
ー遅くも24日に両院議員総会を開く。
と要求したのである。
園田はこの8月24日という日に三木おろしの大勝負を賭けていた。
ーおそらく三木は臨時国会を遅らせてはまずいと焦って、24日午前の定例閣議に召集の件を提案してこよう。このとき反主流派閣僚が挙って反対して閣議決定をさせないように運ぶ。それで三木は臨時国会を開いて財特法などを成立させることはもちろん、国会召集さえ難しいことを思い知るに違いない。
ーその午後、議員総会を開いて、できれば三木の総裁不信任、あるいは解任を決議すれば、三木は総理大臣としての位置はそのままであっても、もう自民党総裁ではない。党に対して何を指示しても 全て否決される立場に立たされる。

いかに三木でも総理大臣辞任、政権投げ出しよりほか致し方ないと考えよう。
ーこのあと福田、大平が三木に会って内閣総辞職を迫れば、三木は辞任の意を表するだろう。今すぐ辞任はしないまでも「臨時国会は自分の手で開かせてくれ。そのあと辞任する」と辞任の時期を明示し、大福に約束せざるを得まい。
ーそれで三木おろしは成功裡に幕をとじることになる。
そのような作戦の運びを組み立てた。事実、反主流各派の首脳たちを その方向に動かしていく肚であった。この頃には政界では
ー福田、大平が今日、明日中にも辞表を出すらしい。
という噂が流れた。反主流派のほとんどの人たちが
「それだけで もう三木はアウトじゃあないか」
と三木おろしの成功を信じて疑わなかった。新聞も
ーいずれにしても三木は 十中八九、辞任に追い込まれよう。
という論調であった。
早くも福田は、その友人に電話して
「僕が政権の座についた時のことだがね……幹事長には大平君を起用したい。官房長官は園田君にしたいが……どんなものか」
そう相談をかけたものである。それが洩れて、政界では党役員、閣僚について 様々な下馬評が飛び交っていた。