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日本に来てから一ヶ月ほどしたある日の事。『なんと殺風景な部屋なんだ!』ベットと鏡台と椅子だけの部屋を見て、せめてもの慰みにと、バークは一輪の花を買って来てコップに差しました。この後、この花が意外な展開をたどることになります。翌日バークが夜勤から戻ってみると、コップに差した花が、花瓶に移されていたのです。バークはフロントへ行き苦情を言いました。バーク『何故余計な事をした。誰が花を花瓶に移せと言った?』従業員『恐れ入りますが、ホテルではそのような指示は出してありません』バーク『なんだって?』この時は誰が花瓶に移したのか分らなったのです。さらに数日後、何と花瓶には昨日まではなかった新しい花が生けられていました。『誰がこんなことを…』花はその後も増え続け、部屋を華やかにしていきました。バークは再びフロントへ行きました。『私の部屋に花を飾っているのが誰なのか探してくれ』調べた結果、
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花を飾ったいた人物が分かりました。それはバークの部屋を担当していた女性従業員でした。彼女は自分の乏しい給料の中から花を買い、バークの部屋に飾ったいたのです。それを知ったバークは彼女を問い詰めました。『君は何故こんな事をしたのだ?』『鼻がお好きだと思いまして』『そうか。ならば、君のした事にお金を払わねばならない。受け取りたまえ』と、彼女にお金を渡そうとするバーク。ところが彼女は…『お金は受け取れません。私はお客様にただ居心地良く過ごしていただきたいと思っただけなんです』『どう言う事だ!?』アメリカではサービスに対して謝礼(チップ)を払うのは当たり前のことです。しかし彼女はお金を受け取りません。
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このあと彼女の身の上を聞いたバークは驚きました。彼女は戦争未亡人で、夫はアメリカとの戦いで命を落としていたのです。しかも、彼女の亡き夫も駆逐艦の艦長で、ソロモン海戦で乗艦と運命を共にしたのでした。それを聞いたバークは『御主人を殺したのは、私かも知れない』と、彼女に謝りました。ところが彼女は愕然としてこう言ったのです。『提督。提督と夫が戦い、提督が何もしなかったら提督が死んでいたでしょう。誰も悪いわけではありません。』バークは考えこみました。『自分は日本人を毛嫌いしてるのに、彼女は出来る限りのおもてなしをしている。この違いは、いったいなんなんだ⁉️』のちにバークは次のように言ってます。『彼女の行動から日本人の心意気と礼儀を知った。日本人の中には、自分の立場から離れ、公平に物事を見られる人々がいること。また、親切に金で感謝するのは日本の礼儀に反すること。親切には親切で返すしかない事、を学んだ。そして、自分の日本人嫌いが正当なものか考えるようになった』こうして、
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バークの日本人に対する見方は一変したのです。折しも、朝鮮戦争は激しさを増していました。バークは一刻も早くアメリカ軍の日本占領を終わらせ、日本の独立を回復するようにアメリカ政府に働きかかるようになりました。加えて、日本の独立と東アジアの平和を維持する為に、日本海軍の再建を説きました。まだ終戦5年ですから、アメリカ人の大多数が反日感情を持ってる中です。バークは根強く説いてまわり、ついに自衛隊を作ることに成功したのて゛した。
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その後バークはアメリカ海軍のトップである作戦部長に就任します。
バークは最新鋭の哨戒機16機
小型哨戒機60機も海上自衛隊に無償で提供しました。1961年、海上自衛隊の創設に力を尽くした功で、バークは日本から勲一等旭日大綬章(最高の勲章)を贈られました。1991年バークは96歳で亡くなります。各国から多くの勲章を授与されたバークですが、葬式の時に胸に付けられた勲章は、日本の勲章ただ一つ。それは本人の遺言でした。そのためワシントンの海軍博物館にあるバーク大将の展示には、日本の勲章が抜けたままになっています。
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平成23年3月11日、東日本を巨大地震が襲いました。この戦後最大の国難に際して、在日アメリカ軍は『友達作戦』を発動しました。このトモダチ作戦で、もっとも早く被災地に着いたのが、原子力空母ロナルドレーガンでした。本来、韓国に向かう任務で移動中でしたが、艦長の独断で日本の救援に駆けつけたのです。その艦長の名は、海軍大佐
トムバーク。
そう、あのアーレイバークの孫です。バーク大佐はヘリコプターのパイロット出身でしたから、空母の事は副館長に任せ、自分は救援物資を積んだヘリを操縦して、避難所を飛び回ったそうです。
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このような自然災害が発生した場合、世界中でどんな光景が見られるか知ってますか…。住民たちによる食料の取り合いが始まります。こうなると、ヘリコプターといえども危険で着陸出来ないそうです。なんと着陸した途端、被災民が銃をぶっ放して、食料を取りに来ることもあるといいます。したがってたいていは対空からの空中投下になるそうです。
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しかし、東北地方は、どの避難場所にもヘリが着陸しやすいように、着陸目印『H』が書いてありました。ヘリが着陸すると、被災民が荷卸を手伝いました。終わったら、全員がお礼を言って見送ってくれます。これには世界各地で救援活動をしてきたバーク大佐も驚いたそうです。『東北地方では、一件の略奪も殺し合いもなかった』と軍の機関紙に書いてます。
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さらに、住民たちは必ず『ここはこれだけで良いから、別の避難所に持って行ってくれ!』と言いました。そんなことも、日本だけだったそうです。人間、極限状況にある時ほど、その本性があらわれるといいますね。
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トム大佐は帰国後、日本で経験した事を家族に話しました。
もし、バーク大将が生きていたら、
『そうじゃろう。じーちゃんが日本好きになった訳がわかったじゃろう』などと応えたでしょうね。
時が流れていくと、変わってしまったり、失われてしまうものがあるなかで、変わらないのが日本人の
『人を思いやる心』です。
いつまでも護り伝えていきたいですね。
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