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「そこまでいっては身もふたもない……現実の大勢として公選気運は遠のいている」
事実、二階堂はそう感じとりながら大平と別れた。次に佐藤栄作を訪ねると 佐藤は
「田中君も可哀想だなァ、一人だけ悪者になって……」と しんみりした口調であった。
「なあ二階堂君。叩いてもホコリの出ない人間……というのは この世の中にいるもんかねえ」
「あなたもそうですか」と二階堂は苦笑しながらいった。
「ああ、あるよ」と佐藤も笑った。その後これからの政局のことに触れた。
「田中君ももちろんだが福田、大平君もバカにならんといかんねえ。つまり欲を捨てることさ。政権を誰に渡そうとか おれが政権を取ろうとか そんなことを考えてはいかん。機会があったら君がめいめいに忠告することだ」
佐藤のいい分はさすがだ― と思いながら 最後に二階堂は椎名を訪ねた。
「見通しはどんなもんでしょう」
「やれる……よ」
椎名はけろりとした表情でそういった。
「が、どうせ話し合いは わしと君たち党三役が顧問会議を招集して話を聞くことから始めねばならんだろう。その上で実力者会議だ。これが決め手になると思うな。君は田中派代表兼行司役として加わったらどうかな」
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二階堂は保利からも「実力者会談の場合は君も入れ」といわれた。しかし二階堂は断った。
「なにしろ喪中ですからな」
後になって田中派は
「本当は二階堂を大平、福田、三木、中曽根の四候補に加え 舞台廻しさせたら良かった」
と嘆くことになる。
この前後、舞台の裏側では候補者と目される大平、福田それに三木と三人の間で複雑微妙な駆け引きと 肚の探り合いが密かに繰り広げられていた。
その一つは福田と大平の隠密な接触作戦だった。
「この際は先の公選順位、年齢の序列からいって 大平君は福田に譲るべきじゃないか」
という岸信介の発想がその発端になっていた。
「そのために福田、大平会談を仕組んだらどうだ」
と福田派の坊秀男、早川崇たちが考えついた。坊が使いに立って大平に会い 福田との会談を勧めた。
一方では早川、瀬戸山三男たちが大平派総参謀長の鈴木善幸のもとに出向いて二者会談を求めるとともに
「福田に比べ大平はまだ若い。今回は福田に花をもたせてくれ」
と説得にかかった。鈴木は福田派の人々に皮肉な言葉を吐いた。
「福田のやることなすこと 田中派からひどく恨みを買っている。昔話になるが池田内閣の時にもそうだ。
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福田派は党風刷新連盟でなんだかんだと池田派に嫌がらせをした。これでは今になって福田に協力せいといっても 田中派もわが派もそうはいかんよ。福田さんも いやしくも総理総裁を狙うなら 言動には注意すべきだね」
しかし鈴木も大平本人も
― 福田に会っておくのも無駄ではない。
と考えた。それは
― 結論は公選になる。その舞台に福田を乗せるためにも こちらが勝った後ガタガタ騒がせないためにも いま会っておいて後々の全面協力を約束しておくことが必要だ。
という思惑からだった。
大平、福田会談が極秘のうちにもたれたのは11月27日、まだ仄暗い早朝の6時であった。世田谷松原にある永野重雄日商会頭の邸宅をその場所として借りた。立ち会った永野は 岸信介から授けられた通りの意見を述べた。
「いま自民党は公選をやるべき状態ではない。話し合いで後継者を決めねばならん時だと思う。その場合、二年前の公選で二位を取った福田氏が後を継ぐのが順序ではないだろうかね。それに大平さんはまだ若い……」
確かに大平は64歳で 福田は三つ上の67歳である。二、三年すれば福田は年齢的に総理総裁の資格を失いかねない。
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だが大平にとっても
― 今度が絶対チャンスだ。今をおいては他にない。
という思いは強かった。
― 公選になれば反福田に熱し切っている田中派は 総力をあげて自分を支持してくれる。これだけで勝てる。
それを前提にして
「やはり公選……姿勢を正した選挙での決定が一番公正明朗だと思う……」と答えた。
「君は初めから話し合いを拒否する……というのかね」と福田は面白くなさそうな表情できいた。大平は答えた。
「いや 話し合うこと自体 反対じゃない。ただその話し合いで後継者を決めることは陰湿な密室工作じみて かえって国民の不信感を買うと考えているのだ」
「だがね大平君。このさき顧問会議とか実力者会談が行なわれるはずだ。三役も党内を打診する。それをバックにしての話し合いだから 陰湿とか密室とかいうことは当たらんよ」
「そうすると……椎名副総裁が後継者については党内の意向打診の結果だれだれにすると決める。これを田中総裁のところに持って行って田中総裁が指名する……という形になるのかね」
「………………」
「少なくとも池田退陣の後は川島副総裁と三木幹事長が党内調整をはかった。そして佐藤さんを池田さんに推薦した。
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この時、川島さんも三木君も 池田さんに『あなたが指名すれば済むことだ』といった。今度も最終的には田中総裁が指名する……わけかね」
そのあたりを大平は執拗に繰り返した。そういわれて福田には心理的に大きく引っ掛かるものがあった。
― 今まで話し合い方式を唱えてきたが 最後の断を角さんが下すという形になるとまずい。そうなれば話し合いで大平になる可能性が出てくる。
この大福会談では福田の方が考え込まされる点が多かった。
― 角さんとも喧嘩状態のままではまずい。
福田はその日の午前、自派の園田直を呼んで
「角さんのところに挨拶に行こうと思うんだが……」
と相談した。園田は
「退陣早々の今は却ってまずいですな」と止めた。
それで福田は坊秀男を田中邸に走らせた。少しでも田中の感情を和らげておこうという配慮だった。坊は田中に
「総理総裁の退陣を意義あるものにしたい。混乱を起こしてはならないと思う。もうあなたも細かなことには超然として見守っていただきたい」といった。
― 後継者問題に介入して下さるな。
という意味をこめての発言だった。田中は即座に
「おれはもう何一ついわんよ。混乱させてはいかんからな」と答えた。
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だがこのように付け加えた。
「だがみんなも我執を捨てるべきだな」
この坊の報告を受けた福田は
― 角さんがとやかくいわなければ話し合いでおれに決まる。
そう確信した。
一方、三木と大平の会談も内密のうちに行なわれた。28日午前9時、三木邸の中にある女婿の私宅であった。三木は
「大平君、率直にいわせてもらうよ」と切り出した。
「今度のところはだね、反主流派に政権を渡すべきだと思うんだ」
「それは君か福田君か……どちらかね」
と大平は釣り込まれた形で質問した。
「どちらかは僕と福田君で決めたい」
「そうした決め方は不明朗じゃないか。君の日頃の主張と違う……」
そう大平は切り返した。何の一致点もないままに この会談は幕を閉じた。
そうした間に椎名副総裁の影の男として動いたのは根本龍太郎であった。
椎名調査会の副会長というポストにあり 無派閥で動きやすい立場にあった。田中とは民主党以来の交際である。根本は大平派前尾系の小山長規、小平久雄を
「大平政権に固執しなさんな。田中亜流政権だと叩かれて ろくなことにはならん」と説得した。
田中派の西村英一に向かっては
「君たちは謹慎中のはずだ。一切黙っていろとはいわん。
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が、なにがなんでも公選だ、大平だといっておったんでは田中退陣が泣くぞ」といった。
「無理してまで公選だの何だのとはいわんよ。話し合い結構、妨害の気などさらさらない」
この西村の答えは田中首相みずからと首脳たちのあり方― いい換えれば公選、大平に対して冷めつつある心境を告白していた。
この間にも各派、各グループの活発な動きがあった。福田派の安倍晋太郎、三木派の谷川和穂、椎名派の松岡松平を座長とする再建議員連盟の行動も その一つであった。
彼らは公選反対、話し合いによる後継者決定― を軸にして強硬な方針を打ち出した。
「従来通りの総裁公選が強行されれば 事実上 党の分裂にもつながる。重大決意で臨む」というものであった。27日午前、二階堂幹事長が船田、大平と会っている最中である。
これを追って翌28日午前、椎名、水田、船田、旧石井各派の中間四派が世話人会を開き
「話し合いによらずに総裁公選に持ち込まれた場合、われわれは選挙に参加しない」と決議した。
こうした動きは広く党内に
― これでは党大会を開いても成立しないのではないか。
― たとえ開いても多数が投票を棄権したら収拾がつかなくなりはしないか。
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そんな危惧感、危機感を煽り立てた。
しかし一方では異なった観測も流れていた。
― 話し合いは進められるとしても それで結論は出ない。公選に持ち込まれる可能性の方が大きい。
という観測だった。
それを見越しての動きも活発になってきた。河野洋平の擁立運動はそれであった。洋平はいうまでもなく故河野一郎の長男で 河野謙三参議院議長の甥である。
洋平は将来の総裁候補といわれているだけに その下に参ずる中堅、若手の数もなかなか多い。そうした人たちをつらねて かねてから政治工学研究会をこしらえていた。
田中退陣の後、もたつく後継問題を目前にして 彼ら河野グループが独自の行動を開始したのである。
中曽根派では藤波孝生、大石千八、三木派では塩谷一夫、山口敏夫、西岡武夫、菅波茂、田中派では橋本龍太郎、奥田敬和、石井一、小林正巳、船田派では佐藤文生、無派閥では竹内黎一、田川誠一といったメンバーがこれである。
「新しい自民党を作るのには大平、福田、三木、中曽根など今 候補に上がっているような既成の実力者ではダメだ」というのが彼らの考え方であった。もちろん
― 最終的には河野洋平を出馬させること。
を目途とした。
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それに至るための過程として 彼らはヒルトンホテルにある河野事務所に大平派前尾系の宮沢喜一を招いた。
宮沢はまた 中堅、若手を超派閥的に集めて平河会というグループをもっている。
その日、宮沢は平河会幹事の林義郎(田中派)を伴って河野事務所に姿をみせた。この宮沢に河野グループは
「この際、あなたが公選に立って自民党近代化に乗り出したらどうか」と決起を促した。しかし宮沢の回答は “ノー” であった。
「私は公選ということになれば やはり “大平” と書く。良心と常識に基づいて……です。それ以外 書く気のない私を推して下さっても応ずることはできませんよ」
そのつぎ 河野グループの山口たちは品川旗の台にある石田博英の私邸を訪れた。石田は47年の公選を機会に旧石橋派の宇都宮徳馬、地崎宇三郎、山口を引き連れ三木派に参じている。石田に
「既成の実力者では党再建はできない。あなたを推したい」と申し入れた。
しかし石田はじゅんじゅんと説いた。
「君たちが僕を推してくれる気持ちは有り難い。君たちの考え方も理解できる。しかし古い既成の実力者はダメだから この石田を推す……といっても世間ではその理屈が通りにくい。
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むしろ君たちが総裁候補に推すならば 国民がすっきりとわかるような若い人物がいいのじゃないか」
石田は この連中の狙いが河野洋平擁立にあることを看てとっていた。逆にこういった。
「ところで河野洋平君はいくつになるのかね?」
「37歳です」
「そうか。ちょうど僕らが大暴れして 青年将校などといわれた頃と同じ年輩だな。河野君を擁立する……という線で進んだらどうなんだ」
この石田の言葉に励まされた恰好で 河野グループは前進を始めた。
この第一弾として塩谷、佐藤、竹内の三人が代表となって椎名副総裁を訪ね 要求書を提出したのは28日のことであった。顧問会議が開かれる当日だった。要求書の趣旨は
「わが党の実力者は田中金権政治を糾弾しながらも 自らの責任については口を閉ざしている。総裁公選を主張するのも 話し合いを主張するのも ご都合主義以外の何物でもない。いわゆる実力者の姿勢は 新鮮味と国民をひきつける牽引力に欠けている。これらを選出の対象から外し 新しい時代に対応できる真の指導者を選ぶため 公明正大に総裁を選ぶことを要求する」というものであった。
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