― おれのような心理を歴代のどの総理も味わい 体験したのだろうか……？
田中はこのごろそう考えている。そういうとき決まって田中のまぶたの裏にクローズアップされるのは吉田茂の映像であった。
― どうかね、総理大臣というもののあり方が 多少は解ってきたかね？まだまだ これからもっと苦しまねばならんよ。
田中の回想の中で あくまで吉田は偉大であった。
― 池田勇人、佐藤栄作、おれを加えて 吉田老は三人の総理をこしらえた。とてもおれにはなし難いところだ。
― しかしおれは生粋の党人だ。おれが吉田学校の道統と 党人の道統とをつなぐ接点になる。
それはさらに本当の保守党をつくるという構想にまで発展するのだった。
しかし すべてはこれから先のことだという思いが田中には強い。そして次々と山積する問題を いばらを切り除き掻き分けるようにして歩んで行かなければならない途の嶮しさに長い吐息をつく。
だがそのような内がわの葛藤は 彼が総理大臣である限りにおいては国民のだれも理解しようとはしないし また見ようともしない。そこに田中は総理大臣というものの宿命的な侘しさ、かつて味わったことのない孤独を感じるのだった……。

田中は急遽、福田を蔵相に起用し、後任の行管庁長官に保利茂をあてた。
福田は初め11月改造に際して閣外に去るつもりであったが 意外なところで足止めをくってしまう。愛知の死は田中の役に立ったことになる。田中も石油ショックの重大さに気づいて本腰を入れ始めたらしい。
宏池会の勉強会で下村治はこの時
「石油供給の制約がわれわれの経済に課されることになった。経済成長率は減速しなければならぬだろう。このカベは技術の革新が石油制約を取り除くまで破れまい。日本経済は停滞的な成長率の状態に入る」
といい
「来年の日本のＧＮＰはマイナス5％ではないか。所得政策が不可避だろう。社会不安が起きないか心配だ。来年の1〜3月が危ない」
と予測した。下村はこの石油ショックの現状を冷静に観察した結果、従来の高度成長論者から低成長論者として鮮やかな変身を遂げた。
私は日本経済の変貌を下村治の変貌によって実感として受けとることができた。

これより先、駐日アラブ諸国の大使たちは大平外相を外務省に訪ねて
「イスラエルとアラブ諸国の交戦状態の中で日本はわれわれアラブにどういうことをして頂けるのか、これを聞かせてほしい」と迫った。

大平も困りはてて明確な返事を与えず「だんまりの状態が何十分と続いた」という。常識的にみれば石油のことを考えてアラブ寄りの態度をとるのが当然なのだが、はにかみ屋の大平は手のひらを返したような態度変更は出来ない。
一方、田中はごく自然に割り切ってしまう。大平を見て内心いらだったのだろう。田中は海外経済協力大臣の新設をいい出した(これは外交の二元化を招くもとである。結局この内閣法改正案は 大臣の数が増えすぎるという理由で山中貞則あたりから反対が出て沙汰やみとなった。佐藤内閣以来、官房長官と総務長官が認証官から国務大臣に格上げされ、役所も環境庁、沖縄開発庁、国土庁と増える一方であった)。その上12月10日には三木副総理を特使として石油危機打開のため中東八ヵ国歴訪に出発させてしまう。
12月18日には田中は国民生活安定緊急対策本部を内閣に設置し 自らその本部長になり国民生活安定緊急措置法、石油需給適正化法の二法案を国会に上程して21日にはこれを成立、22日から公布してしまうのだ。これらは全く目にも止まらぬ早業というより外はない。

保守派は在日朝鮮人です

ＯＡＰＥＣ諸国は日本政府の敏速な対応に反応したせいか 12月25日、日本を友好国扱いとすることを決定した。私はこれで最悪の事態は免れ「大平外交はともかく虎口を脱したな」と思った。
暮れも押しつまった12月27日、大平は私に
「日韓(金大中事件)は大平流にこなした。情勢はよくなりつつある」「海外経済協力大臣の設置は下手をするとおかしなことになる」
と不満を述べ
「田中はいい恰好をして思いつきをいう」「最後に田中が頼るのはおれしかないのだ」
と珍しく田中を批判した。よほど肚にすえかねたのだろう。外相以外に海外経済協力相などをつくられては外交権は二本にも三本にも分裂する外はない。
私は
「大平さん、あなたは総理になるなど考えなくてもいい。外相の仕事に専念し 現在の仕事にただただ努力し この努力することにすがって行くべきだ。他人の意向など当てにする必要はない」
と述べた。大平は
「ときどき来てくれ、迷うから」
といった。同席していた外務省出向の秘書官は私の言葉をひどく喜んだ。

昭和49年、新年の幕があいた6日の朝、私はいつものようにラジオ放送で目が覚めた。政治評論家の藤原弘達が7時の番組で今年の見通しを述べた。「3月にはゼネストになるかもしれない。総評の太田薫が田中内閣打倒の場をつくる。あとは経済のわかる福田しかいない」というのだ。政治評論家がこれだけはっきりいい切るのは珍しいことなのでひどく印象的だった。
「そうかもしれないな」と私は思っていた。
元旦の9時、大平邸に行くと 大平は
「明日、北京に出発する。暮れの28日に風邪をひいたので医師をつれて行く」
といった。
「今から宮中に参内し そのままホテルオークラに一泊、明朝 北京に飛ぶのだ」
私は日中友好平和条約の時と同じ思いで大平を送った。
一週間ほどして大平が帰国しているのを知り 瀬田の私邸を訪れた。大平は来客を一切断ってだれも入れなかった。「風邪の静養」という口実だ。私も容易に入れてはもらえなかったが 運よく大平夫人と顔を合わせたので部屋に入ることができた。
福田篤泰外交調査会長と打ち合わせをすませた大平は、疲労はしていたが心は晴れていた。私と二人きりになると北京での外交折衝の一部を話しはじめた。

周恩来や毛沢東と会った、中国側とやり合った、話し合いが決裂して帰国を決意し コミュニケの内容を準備していると「周恩来が会いたい」といってきた、こうして提示された中国案は日本案そのままであった。
大平は嬉しそうだった。
北京での交渉は成功したのだ。だがこれらの内容は一切公表されなかった。
心配なのはこの航空協定の批准につき田中がそれほど乗り気ではなく 党内には依然として根強い反対の空気があることだ。
親台湾派は前年の日中交渉についても不満であった。大平外相が北京での記者会見で 一方的に日華条約を破棄したことを怒り これに呼応して対日断交を行った台湾に対し肩身の狭い思いをしていた。それだけに台湾を中国の一部とみなすことになった今 まず第一に発生した「航空協定の締結」については何としても大平外相に文句をつけてやろう、と手ぐすねをひいていたのだ。
日本が北京と航空協定を結ぶことは 一面からいえば日本と台湾との間に成立していた協定が「国家間の協定ではなくなる」ということを意味する。ここから当然面倒なことが出てくる。これを大平外相は台湾となんとか接触してケリをつけてゆかねばならない。

夫婦別れをした相手と財産について争いを起こすようなもので 大平外相の立場はひどく苦しいものだった。政敵はこれを利用して総裁後継者としての大平を叩き 同時に田中政権そのものをゆさぶる材料に仕立てあげたかった。
1月末、宏池会で佐々木義武に会うと
「この協定は党内の了承を得るのが大変だ。大平外相が2月中旬に国際石油会議に出席するまでになんとか党議を決定したいのだが」
と心配した。案の定、航空協定を取りあげた2月1日の総務会は大荒れに荒れる。
「親台派の中核分子とみなされた青嵐会の浜幸など大暴れで大変だった。あれでは党規委員会にかけられるだろう」
と服部安司が私にこぼす。これでは航空協定を党議決定にこぎつけるのは容易ではない。
佐々木義武、伊東正義ら大平直系は この協定を政調部会、外交部会などと下部組織から段階を追って一つ一つ合意を積み重ね最後にこれを党議として総務会で決議させようとした。浦野幸男、田沢吉郎などもこれに動員された。
この結果2月9日の総務会で日中航空協定はやっと承認にこぎつける。反対はわずかに三人にすぎなかった。この成果は文字通り十数日に及ぶ若手議員の奮闘の結晶であった。

宏池会の長老連中は非協力的なのだ。若手議員たちは
「前尾グループとは別れ われわれは独自の行動をとろう。大平も煮え切らない、だんだん前尾と同じように停滞的になってきた」
と憤懣をぶちまけた。
石油会議に出席のため渡米した大平は 記者会見で天皇の訪米時期を誤り「錯覚外交」の批判を受け ひどく男を下げた。
帰国した大平は なにを思ったのか女房役の法眼晋作次官を辞任させてしまう。これがまた問題となった。「大平の失敗を法眼に転嫁したのじゃないか」の疑惑が生まれる。
たび重なる大平のエラーに宏池会の代議士連中もたまりかね 総会を開いて大平の釈明を求めた。
私は大平と会い
「あなたは今度の石油会議でキッシンジャーと共同作業をしたという。北京では周恩来と渡り合い日中航空協定をまとめ上げた。英語や中国語でやった外交でいい成績を上げたあなたが 日本語でやる外交でいい点があげられないのはおかしな話だ」
こういうと
「君は時々やってきてはいいことをいう」
とひどく喜んだ。キッシンジャーは大平の考えを参考に米国案を手直ししていた。
大平は石油会議の話を私にしているうちにだんだん元気になっていった。

49年が明けると田中首相は1月7日から17日まで 東南アジア諸国連合五ヵ国を訪問した。東南アジア諸国に対する日本の急激な経済進出が 日本に対する不信感を招いているさなかであった。
タイでは1月9日 バンコクに着いた田中首相は約五千人の学生デモ隊に取り囲まれた。彼らは
― くたばれ、日本のエコノミック・アニマルめ。
― 田中帰れ。
というシュプレヒコールをあげた。
インドネシアでは1月15日に反日デモが暴動化さえした。一万人以上の集団暴徒がジャカルタにある日本系企業や日本製の車に放火し 日本大使館の国旗を引きずり降ろす挙に出た。
42年に佐藤首相が訪問した際には熱烈な歓送迎をうけたが、余りにも熱狂的なこの国の国民性に不安も感じられた。ジャカルタの宿舎から飛行場へ向かう途中、熱狂した子供たちや民衆が群がって佐藤首相の車も一時停められる程だった。もしこれが逆に国民感情の行き違いがあったら……とは当時から懸念されていたことだったが、それが現実になったのである。
おり悪しく田中は顔面神経痛を患って その顔がゆがんでいるのをおしての外遊であった。にもかかわらず報われるところは少なかった。