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【巨人】88 原辰徳(*´-`)
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☆1958・7・22生
☆181a88`
☆右投右打
☆神奈川県出身
☆東海大相模高─東海大─巨人(80年1位)(*´-`)
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―次の監督へのメッセージがあれば。
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いい形で(次の監督に)引き継ぐのが残された大きな仕事。次は主筆、オーナーとも話したが、白紙とまではいかないが、決まっていない状態。私が長嶋さんにしていただいたように、いい形で引き継ぐことが次期監督の成功、巨人の隆盛につながると思う
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1リーグ制を、君はどう思うかな?
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巨人・原辰徳監督(57)が、今季限りで勇退することが19日、正式に決まった。東京・大手町の読売新聞東京本社内で渡辺恒雄最高顧問(89)、白石興二郎オーナー(69)と会談し、辞任を了承された。指揮官はそのまま記者会見に臨み、「肩の荷が下りた」「完全燃焼できたと思う」などと、監督生活延べ12年間の思いの丈を存分に語った。
無数のフラッシュが原監督を迎えた。巨人カラーのオレンジ色のネクタイ姿、穏やかな表情で会見場にやってきた。午後3時半から1時間にわたった最後の会見では、いつになくたびたび、笑顔を見せた。「肩の荷が下りて、こんなに気持ちよく寝られて、朝の目覚めもよくてね」と心境を語った。
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監督生活、通算12年。2年契約が満了する今季をリーグ2位で終え、CS最終ステージではヤクルトに敗戦。17日の敗退直後に、辞任する意向を球団側に伝えていた。この日、読売新聞東京本社内で行われた渡辺最高顧問、白石オーナーとの約1時間にわたる会談の中で申し入れを受諾された。「監督として12年、コーチとして3年、15年間にわたってチームを滞らせずに任務を終え、新しい監督に託せることは感謝と同時に、私の中にも多少の満足感はある。完全燃焼できた」と心の底からの本音を吐いた。
監督として通算947勝を成し遂げた。川上哲治、長嶋茂雄に次ぐ巨人歴代3位の功績は生涯、色あせることはない。入団1年目の指揮官だった藤田元司監督を尊敬し、02年にミスターからバトンを受けた監督生活。偉大な歴代監督のサイン入り色紙を東京Dの監督室に飾り、魂を引き継いできた。「あまりに背負っていたものが大きかった」と振り返ったが、常に「目的は勝つこと」を口癖に戦ってきた。
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「勝つためにどういう手段をとるのか。マイナスなことをやるならばチームの一員ではないと常々言ってきた。バントのサインを出せない、誰々に代打を送ってはいけない、この投手は代えられない。そういうことは片隅にもなかった」。今年に限っては村田や阿部ら実績のある選手も容赦なく、ベンチに下げた。ときには“非情采配”と酷評されたこともある。だが、ナインには「勝つこと一点に集中してくれ。励行できないのであれば巨人ではなく個人だ」と就任当初からの変わらぬ方針は貫いた。リーグ優勝7度、日本一は3度。誰からも惜しまれながらの勇退となった。
95年、現役引退のスピーチ。「私の夢には続きがあります」と語った。監督生活12年間でそれは達成できたのか―。「当時の夢は監督、コーチになって…と思ったが、多くを言葉に出すことはできなかった。夢を全うしたことには満足している」
今年に入り、指揮官はこう漏らしたことがある。「いつかユニホームを脱いだら、世界一周旅行でもしたいな。かみさんと、何も考えずにゆっくり過ごしたいよ」。最後に花束を手にした原監督の表情は、この上なく晴れやかだった。
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◆原 辰徳(はら・たつのり)1958年7月22日、福岡県大牟田市生まれ。57歳。東海大相模高―東海大を経て、80年ドラフト1位で巨人入団。81年に新人王、83年は103打点で打点王とMVP。95年に現役引退。99年に野手総合コーチとして巨人復帰。ヘッドコーチを経て、2002年に監督就任し、リーグ制覇、日本一。03年オフに退団し、06年に巨人監督に復帰。09年、第2回WBCで日本代表監督に就任し世界一に輝くと巨人でもリーグ3連覇、日本一。12年からは再びリーグ3連覇を果たした。181センチ、88キロ。右投右打。
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巨人・原辰徳監督(57)が、今季限りで勇退することが19日、正式に決まった。東京・大手町の読売新聞東京本社内で渡辺恒雄最高顧問(89)、白石興二郎オーナー(69)と会談し、辞任を了承された。指揮官はそのまま記者会見に臨み、「肩の荷が下りた」「完全燃焼できたと思う」などと、監督生活延べ12年間の思いの丈を存分に語った。
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なぜ決断したか。12シーズン、(2期目は)10年連続で指揮を執った中で、ここ3年ほどチーム力が低下し、成績も落ちてきていた。何とか(立て直したい)、という思いはあったが、この辺が潮時であり、チームにとっても新陳代謝をし、新しい指導者、リーダーに託すことの方が正しい選択であろう、という気持ちで、こういう(退任の)結果になった。
思い起こせば1999年、長嶋監督(現終身名誉監督)のもと、コーチを3年間やり、その後(2002年)に長嶋さんより命を受け、渡辺主筆、そして(当時の)山室球団代表からバトンが渡された。野球人として最大のあこがれである長嶋さんの後で監督をやることは、何にも増して大きなプレッシャーだった。しかし、非常にスムーズな引き継ぎや、残されたスタッフの人たちのおかげで、不安もあったが、12年間滞りなく仕事を全うできた。さまざまなことが起き、勝ったり負けたりもあったが、長嶋さんの後を受けたあのプレッシャーを超えるつらさは何もなかった。私の中では一番の大きなものだった。
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思い起こせば1999年、長嶋監督(現終身名誉監督)のもと、コーチを3年間やり、その後(2002年)に長嶋さんより命を受け、渡辺主筆、そして(当時の)山室球団代表からバトンが渡された。野球人として最大のあこがれである長嶋さんの後で監督をやることは、何にも増して大きなプレッシャーだった。しかし、非常にスムーズな引き継ぎや、残されたスタッフの人たちのおかげで、不安もあったが、12年間滞りなく仕事を全うできた。さまざまなことが起き、勝ったり負けたりもあったが、長嶋さんの後を受けたあのプレッシャーを超えるつらさは何もなかった。私の中では一番の大きなものだった。
長嶋さんは私がコーチのとき、野手の用兵は任せてくれていた。選手交代のときは(自分なりに)工夫をしていたが、当時の山室代表が「先を読んだ用兵が素晴らしいね」と言ってくれた。そこから余計に野球に対する研究心が出た。セオリー、戦術。そういうものの勉強のきっかけとなった。そこがスタートラインだった。
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