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【ペン専用】SUPERNOVA(旧 超新星)★62
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ほどほどに
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という判断であった。
― まして自分が強く挑戦の姿勢を示せば、なおのこと佐藤は引退する。
と計算もしていた。
帰国した三木武夫が空港であげた第一声の反響は、大きいものがあった。政局、夏の陣の幕を切って落とす形になった。
その翌日、麹町の三木事務所に、派の幹部たちが集まったとき
― 秋10月の総裁公選に賭ける。
といった雰囲気が、彼らのあいだにも張りつめていた。
もっとも、この三木の外遊については、はじめ松浦周太郎、佐伯宗義たちは「いまは総裁公選の準備に、もっとも大切な時期です。外遊は絶対に不利と思う」と反対の態度を示した。
だが三木は「そういうが、政治家は政策で勝負せねばならない。そのための外遊だ」と譲らなかった。
政策第一ということは、昔からの三木の信条である。
そういわれれば、松浦、佐伯も二言はない。としても、これら長老たちは
― 現実の総裁選の勝負は、政策ではない。資金、多数派工作だ。そうした実戦上の準備を、この夏にかけて、三木にやってもらいたい。
そんな内心の不満は、抑えがたかった。
そうした不満は中堅や若手のなかにもあった。
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三木は、こんどの外遊では志賀健次郎元防衛庁長官、塩谷一夫、丹羽久章を連れて、まず東南アジアをまわった。各国の首相たちに会った。ホテルでは、夜2時ぐらいまで勉強するのをつねとした。
塩谷、丹羽たち青年将校は、三木から総裁公選への具体的な話がなく、サイゴン、バンコク、シンガポールと日が過ぎるうちに、ついに業を煮やして、ジャカルタでは深更、三木の部屋に押しかけた。
「秋の公選をいかに闘うのか、決心と作戦をうかがいたい」と切り込んだ。
「君、政治というものはだね……」と三木一流の次元の高い政治論が出てきた。塩谷、丹羽は承服しなかった。
「私たちが訊きたいのは、政治哲学ではありません。公選に臨んで、各派工作はどう展開するのか、資金準備はどうはかるのか、そうした戦略、戦術です。それを決めていただかんと、私たちは行動を起こすこともできません」
激しい詰め寄りかたであった。だが三木はただ、渋面をこしらえて、こう答えただけであった。
「まだ……早い」
東南アジアで志賀、塩谷、丹羽の三人と別れたあと、三木はひとりでヨーロッパにまわった。
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三木は、こんどの外遊では志賀健次郎元防衛庁長官、塩谷一夫、丹羽久章を連れて、まず東南アジアをまわった。各国の首相たちに会った。ホテルでは、夜2時ぐらいまで勉強するのをつねとした。
塩谷、丹羽たち青年将校は、三木から総裁公選への具体的な話がなく、サイゴン、バンコク、シンガポールと日が過ぎるうちに、ついに業を煮やして、ジャカルタでは深更、三木の部屋に押しかけた。
「秋の公選をいかに闘うのか、決心と作戦をうかがいたい」と切り込んだ。
「君、政治というものはだね……」と三木一流の次元の高い政治論が出てきた。塩谷、丹羽は承服しなかった。
「私たちが訊きたいのは、政治哲学ではありません。公選に臨んで、各派工作はどう展開するのか、資金準備はどうはかるのか、そうした戦略、戦術です。それを決めていただかんと、私たちは行動を起こすこともできません」
激しい詰め寄りかたであった。だが三木はただ、渋面をこしらえて、こう答えただけであった。
「まだ……早い」
東南アジアで志賀、塩谷、丹羽の三人と別れたあと、三木はひとりでヨーロッパにまわった。
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イギリスではヒース首相、西ドイツではブラント首相、アメリカではキッシンジャー大統領特別補佐官、カナダではトリュドー首相たちに会い、たいへん勉強をかさねた。
いま― 帰ってきた三木は、幹部たちに、こういった。
「この眼で、東南アジアの現実をみ、西欧の首相にも会ってだ、中国の国連加盟を認めること、日中国交を打開すること、その早急な実現の必要を、ぼくは確証としてつかんできた。だからこそ、自信をもって、佐藤君の日中後ろ向き外交を、批判もできる。また、三期引退を迫ることもできる」
いつも、落ち着いた、ねっとりした口調ではあるが、この場合は、― 一歩も退かん、という自信がうかがえた。
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イギリスではヒース首相、西ドイツではブラント首相、アメリカではキッシンジャー大統領特別補佐官、カナダではトリュドー首相たちに会い、たいへん勉強をかさねた。
いま― 帰ってきた三木は、幹部たちに、こういった。
「この眼で、東南アジアの現実をみ、西欧の首相にも会ってだ、中国の国連加盟を認めること、日中国交を打開すること、その早急な実現の必要を、ぼくは確証としてつかんできた。だからこそ、自信をもって、佐藤君の日中後ろ向き外交を、批判もできる。また、三期引退を迫ることもできる」
いつも、落ち着いた、ねっとりした口調ではあるが、この場合は、― 一歩も退かん、という自信がうかがえた。
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それを承けて、幹部たちは、こんごの作戦の協議に入った。
夏に入ると― 例年、国会はない。派としては、研修会をひらくのが通例である。この派閥の研修会が、秋に総裁公選がある年には「派としての方針、態度決定の機会」になる。
「当然、研修会で、出馬を鮮明にしなければならんでしょう」と発言したのは河本敏夫であった。
「が、その研修会の時期を、いつにするか……だな」
松浦周太郎が、そういった。
研修会を、三木出馬の旗上げにする― となれば、やはりうまい時期をえらぶべきだ、という配慮からであった。
「他の派は、どうなっているかね?」
そういう河本の質問に、井出一太郎郵政相が答えた。
「前尾派は箱根で7月5日から。中曽根派は同じく箱根で7月7日から。石田博英系は札幌で7月9日から。川島派は那須で7月20日から。村上派は都内で7月20日から。石井派は軽井沢で7月22日。園田派は熱海で8月10日から。船田派は熱海で9月1日から……といった予定です。」
「となると、わが派はいつにするか……」
「おそいほうがいい」と、三木がいった。
「秋の公選にちかく……。そのほうが、佐藤君を、三期退陣に追い込みいいだろう」
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それを承けて、幹部たちは、こんごの作戦の協議に入った。
夏に入ると― 例年、国会はない。派としては、研修会をひらくのが通例である。この派閥の研修会が、秋に総裁公選がある年には「派としての方針、態度決定の機会」になる。
「当然、研修会で、出馬を鮮明にしなければならんでしょう」と発言したのは河本敏夫であった。
「が、その研修会の時期を、いつにするか……だな」
松浦周太郎が、そういった。
研修会を、三木出馬の旗上げにする― となれば、やはりうまい時期をえらぶべきだ、という配慮からであった。
「他の派は、どうなっているかね?」
そういう河本の質問に、井出一太郎郵政相が答えた。
「前尾派は箱根で7月5日から。中曽根派は同じく箱根で7月7日から。石田博英系は札幌で7月9日から。川島派は那須で7月20日から。村上派は都内で7月20日から。石井派は軽井沢で7月22日。園田派は熱海で8月10日から。船田派は熱海で9月1日から……といった予定です。」
「となると、わが派はいつにするか……」
「おそいほうがいい」と、三木がいった。
「秋の公選にちかく……。そのほうが、佐藤君を、三期退陣に追い込みいいだろう」
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この45年夏の派閥研修会のはしりは、前尾繁三郎派であった。他派にさきがけて行なうことに、前尾派としては、意味をもたせようとしたのである。たしかに、この一番名乗りは
「あの消極的な前尾派が、いの一番とはね」
と、党内の多くに眼をみはらせる効果はあった。
これまで前尾派は「防御には強いが、攻撃には弱い」といわれつづけてきた。というのも、池田勇人が亡くなったあと、前尾はいかにも、地味で、堅実な人間らしく「池田さんの遺産だけは、確実に守る」といって「一城の守備」専一につとめてきたのである。
少なくとも、池田の三回忌がおわるころまでは、週一回の定例会で、前尾は部屋に飾ってある池田の遺影に、ひそかに黙祷をささげた。
「派は、あくまで一本化していきます」と、つぶやいていた。
この派の大平正芳、鈴木善幸総務会長、宮沢喜一通産相、福永健司、荒木万寿夫国家公安委員長たちも同じ思いであった。
他の派では、河野一郎亡きあとの河野派は、中曽根康弘派と故森清― 園田直派に分裂し、大野伴睦派は大野が逝ったあと、船田中、村上勇両派に割れている。各派とも小派閥、総裁候補のない中間派閥として、苦難の途をたどりつつある。
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この45年夏の派閥研修会のはしりは、前尾繁三郎派であった。他派にさきがけて行なうことに、前尾派としては、意味をもたせようとしたのである。たしかに、この一番名乗りは
「あの消極的な前尾派が、いの一番とはね」
と、党内の多くに眼をみはらせる効果はあった。
これまで前尾派は「防御には強いが、攻撃には弱い」といわれつづけてきた。というのも、池田勇人が亡くなったあと、前尾はいかにも、地味で、堅実な人間らしく「池田さんの遺産だけは、確実に守る」といって「一城の守備」専一につとめてきたのである。
少なくとも、池田の三回忌がおわるころまでは、週一回の定例会で、前尾は部屋に飾ってある池田の遺影に、ひそかに黙祷をささげた。
「派は、あくまで一本化していきます」と、つぶやいていた。
この派の大平正芳、鈴木善幸総務会長、宮沢喜一通産相、福永健司、荒木万寿夫国家公安委員長たちも同じ思いであった。
他の派では、河野一郎亡きあとの河野派は、中曽根康弘派と故森清― 園田直派に分裂し、大野伴睦派は大野が逝ったあと、船田中、村上勇両派に割れている。各派とも小派閥、総裁候補のない中間派閥として、苦難の途をたどりつつある。
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「そうなってはならない」という強い意思で、前尾派は池田以来のその派をまとめてきたのだ。
その反面、前尾派が籠城型になってしまったことも、たしかである。それは、前尾という人の消極性にも、理由があった。
池田内閣ができたとき、代貸しの前尾には、当然、幹事長の椅子が割り当てられたが
「幹事長というポストは、いろいろ辛いことがある。それは承知しとるが、なによりもひんぱんに、新聞記者連中に会わにゃならんだろう。それが嫌だ」
そういったほどである。
幹事長になってからも、糖尿を患って、入院したせいもあるが、仕事はもっぱら筆頭副幹事長の鈴木善幸に任せきりだった。
「さすがに、大物らしくていい」という声もあったが「厭なことから逃げている」という非難もあった。
この入院のとき、経企庁長官だった宮沢喜一が見舞いにいくと、前尾はベッドの上にあぐらをかいて、爪弾きで小唄をさらっていた。前尾の小唄の師匠は、春日とよ年で、田中角栄と同じである。前尾、田中とも名取で、二人で舞台に上がったこともある。そのくらいだから、前尾は見舞いにきた宮沢に「どうだ。一緒にさらわんか」と、たいへん暢気なものであった。
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