しかし奇妙にも池田の胸のなかには 佐藤を政敵とする憤怒や憎悪が燃え上がってはこなかった。
― 君はとうとう おれの本当の気持ちを汲みとれなかった。それゆえに焦って おれを敵にすることになった。このことを いつか君はかならず悔やむことになる。
それは自分の真意を理解できなかった友人に対するさげすみと同情、それらが入り混じった冷ややかな心理であった。
佐藤にもまた不思議に池田に対する敵意はなかった。ただある思いをじっと噛みしめていた。
― 今日のように ぼくと君と闘わねばならない事態は河野君がつくりあげたことなのだ。君はなぜそれに気づかないのか。その不明を いずれ君は後悔することになるだろう。
佐藤にもやはり、池田へのさげすみと同情とがあった。
しばらくのあいだ、二人はそれぞれが胸の奥そこでひとりごちていた。
こうした池田と佐藤が、しんそこから敵意を沸騰させ、闘争心を燃焼させる状態に至ったのは、その日の午後から夕方にかけての間であった。
佐藤が去ったあと 池田は黒金官房長官を呼んで「前尾幹事長、河野建設相に連絡して体制がために入るよう、いってくれたまえ」

と闘いの指令を発しながらも まだ闘志はたぎらなかった。冷静な理性的な判断の上に立って こうつけ加えた。
「ただし……今度の公選は ただ勝ちさえすればよい……と思うな。佐藤、藤山連合の合計票より百票は多くとらなければいかん」
といっても池田が百票差の勝利を強調したのは 佐藤を再起不能に陥しめるという意識からではなかった。
― 大量の差をつければ 佐藤がみずからの非力を反省し 自分に敵対した行為を悔やみ、つぎには自分の前にうなだれて 昔の友情の復活を請うてくるだろう。
という逆説を池田は組み立てていたのである。そこにはまだ佐藤を敵視する心理は動いてはいなかった。ただ聞いている黒金の判断と計算とは まったく反対であった。
― 池田総理が百票差で圧勝したならば佐藤は致命傷を負う。二年後、ふたたび立候補はできまい。間違いなく河野の時代がくる……。
そう考えながら黒金は記者クラブの会見室に出向いた。毎日きまって正午に行なわれる定例記者会見に臨んだ。
「池田総理はだんことして『百票抜いてみせる』……こういっとります。この自信と成算とを認めていただきましょうか」

黒金にしてみれば そういう強い表現で百票差の必勝を謳うことが、池田派の気勢をあげ 多数派工作を展開する上に有利と読んだのだ。
その黒金談話がやがて佐藤の耳に入ったとき 佐藤は体いっぱいに池田への激烈な憎悪が燃え上がった。
― あいつは おれの力をその程度にしか評価しとらんのか。必ず勝ってみせる。
その感情は午後3時 開かれた立候補宣言大会で あからさまに爆発した。佐藤は 池田の高度成長計画のひずみと外交政策の無為を批判し、その是正 再建のための出馬であると演説した。
「聞けば池田君は、私と藤山君との票を百票引き離すといった由でありますが、それはまさに幻想以外のなにものでもない。政治は幻想ではなく現実であります。この現実を池田君にみてもらいたい」
その激越なく結びの言葉は そこに集まった四百人ちかい佐藤支持者たちを どっと湧き上がらせるのに充分だった。

それはまた この夕方 その演説内容を黒金官房長官から聞いた池田を激怒させるのにも充分であった。
「そうか……佐藤はそういうことをいったか……」
池田のこめかみのあたりが微かな痙攣を示した。
「二度と立てんように完膚ないまで叩きのめす……」と池田は怒鳴るようにいい切った。二人は完全に闘いのなかに突入したのである。

このときの総裁公選は この上なく激烈をきわめた。おたがいの陣営が派閥単位ではなく、議員一人ずつを金やポストで釣っていくという作戦がみられた。 “ニッカ” “サントリー” という言葉も乱れ飛んだ。ニッカというのは池田、佐藤両派から金をとるもの、サントリーというのは池田、佐藤、藤山の三派から金をもらうものであった。
結局、池田は知らぬこととして河野一郎が軍資金を調達し、散布した。金額は二億円といわれる。外に池田の宏池会から九千万円ほど。攻撃する側の佐藤派の資金は六億五千万円以上ということになっているようだ。これに藤山派が使ったであろう資金を加えると 世上の半分に当たる十一、二億円が闇から闇へと流れたと推測される。

国会が終わり、佐藤は閣僚の、藤山は党役員の辞表を提出した。いよいよ総裁公選がはじまるのだ。二人はそれぞれ池田と会った。藤山は「あなたが辞めて後輩の私を推してください」と言い、佐藤は「あなたが勝っても私が勝っても協力しましょう」と言った。佐藤は、私が勝っても、という言葉を二度くりかえした。
臨時党大会は7月10日ときまった。あと二週間たらずで公選である。
池田総裁を支持するのは河野派、川島派、旧大野派（船田系と村上系）、それに池田派で、佐藤派、岸・福田（党風刷新連盟）派と藤山派がこれに対立し、石井派と三木派の去就は明らかではなかった。
三木は国会が終わって二日目に池田と会い、三選後、池田総裁が「解散せず、四選もしない」ことを条件に池田支持にまわった。石井派はそれから三日たって、佐藤のほうへ近づいていった。当初は三木と提携して総裁公選の直前まで態度を明らかにせず、最後になって佐藤に投票する考えであったが、三木が池田支持を明らかにしたので崩れてしまったように思われた。

これだけの色分けができれば、もう池田三選ははっきりするのだが、佐藤や福田らは、議員たちが自主投票をすべきであるという名目のもとに「忍者部隊による一本釣り」という新しいやり方をとりだして、たいへんな状況になった。池田支持グループの河野、大野、三木、池田派のなかに 佐藤をひそかに支持する忍者がいて、これが佐藤と呼応して動くので、表むきの支持票では票がつかめなくなる。事実、河野のところにも旧大野のところにも忍者がいたし、三木のところはその根拠地という観があった。最終段階になるとライシャワー事件で公安委員長を辞任させられた早川崇が、三木派の十人近くを率いて分派行動をとりはじめた。これが佐藤へ投票する同志を拡大しようというのである。池田派の長老益谷もひっぱられそうになった。佐藤派は火の球のように選挙運動に熱狂する。毎夜、各議員を戸別訪問して説得にまわる状況がよく耳にはいってくる。これはたいへんな攻勢であると私は思った。
池田はなにもしないし、事実できない立場である。ときどき全共連ビルの選挙本部で各首脳と話をし、情勢を聞くぐらいであった。

前尾幹事長は党近代化の推進者だからほとんど動けない。鈴木善幸や小坂善太郎らがとびまわった。河野、川島、三木、船田らは しょっちゅう相談していた。
衆議院は優勢であったが、参議院は劣勢だった。塩見、高橋衛、宮沢らが苦闘していた。
いちど総点検しようというので、池田支持の同志を全共連ビルに招集した ことがある。236名が集まって大いに気勢をあげた。しかしそのころから選挙運動はいよいよ熾烈となり 完全に常軌を逸していった。
汚い攻撃に対しては こちらも似たような手で防衛しなければならない。池田は日本の保守党のこの醜い慣行に、あらためて本当のにがさをおぼえた。党近代化を叫んでいるその最中に、それを五十歩も百歩もあともどりさせるような現実がまかり通ってゆく。池田は歯がみする思いであったろう。
私はいろいろな現象を見たり聞いたりした。「つぎの改造で閣僚にしてくれるなら……」といった人や、佐藤派の勧誘をことわって その間の事情を詳細に話してくれた人や……。私は不思議に心がおちついて 少しも動揺しなかった。こまかい票数の計算はしなかったが、かならず三選するという固い信念だった。

池田派幹部の周東英雄が、衆議院会館の自分の部屋で、秘書に
「木村代議士を呼んでくれ。本人がいなければ秘書でもいい」と命じた。
周東が呼ぼうとしたのは河野派の木村武千代であった。河野派の池田支持をいっそうたしかなものにするために実弾を撃とうとしたのである。ところがその秘書はどう勘違いしたか佐藤派の木村俊夫に電話をかけてしまった。
木村俊夫の秘書が周東の部屋にあらわれた。それを周東はてっきり木村武千代の秘書と思いこんで、奥の部屋に入れた。
「木村君が近く外遊すると聞いているが、これはお餞別だ」と百万円をおさめた封筒を二つ、木村俊夫の秘書の前に置いた。周東はいかにも官僚らしい性格で
「君の名刺でもいい。すまんが受取りを書いていってくれたまえ」といった。その秘書は自分の名刺に「金弐百万円也、お預かり致しました」と書いて周東に手渡した。その名刺を受け取ったとき、周東はびっくり仰天した。もちろん その名刺が河野派の木村武千代の秘書のそれでなく、佐藤派の木村俊夫の秘書のものであったからだ。
周東はあわてて二百万円を引っこめて
「いやいや、私の勘違いだった。お餞別は間違いだった」と釈明した。

最後の追い込みの段階では、池田、佐藤ともにみずから票の獲得に動くことになった。
「総理……このさい ご無理いただかねばなりません」と前尾幹事長が池田にいったのは、公選の両三日前のことであった。
「このさい、総理ご自身で直接、議員たちに電話をおかけ下さい。支持を求めていただきます」という前尾の言葉に、池田はむっとした表情をみせた。
「そこまでやらなければいかんのか？」
「曲げてそう願います。勝つためには致しかたありません」と前尾の口調はきびしかった。
池田か佐藤かと迷っている中間派は、池田からじきじきの電話で、よろしくたのむといわれれば、それだけ池田に傾くことはたしかであった。
佐藤もまた、さらには岸信介も、同じ電話の戦術で攻勢怠りなかった。
公選の前夜― 池田派の前尾たち領袖は、衆参両院議員、地方代議員の名簿を精細にチェックしたあとで
「四十数票、佐藤・藤山連合を抜ける」と確信した。
佐藤派では保利茂も岸信介も名簿を点検した結果
「どうやら十四、五票差で池田に勝てる。決選投票で逆転勝ちできる」と算盤を弾いた。

最後の追い込みの段階では、池田、佐藤ともにみずから票の獲得に動くことになった。
「総理……このさい ご無理いただかねばなりません」と前尾幹事長が池田にいったのは、公選の両三日前のことであった。
「このさい、総理ご自身で直接、議員たちに電話をおかけ下さい。支持を求めていただきます」という前尾の言葉に、池田はむっとした表情をみせた。
「そこまでやらなければいかんのか？」
「曲げてそう願います。勝つためには致しかたありません」と前尾の口調はきびしかった。
池田か佐藤かと迷っている中間派は、池田からじきじきの電話で、よろしくたのむといわれれば、それだけ池田に傾くことはたしかであった。
佐藤もまた、さらには岸信介も、同じ電話の戦術で攻勢怠りなかった。
公選の前夜― 池田派の前尾たち領袖は、衆参両院議員、地方代議員の名簿を精細にチェックしたあとで
「四十数票、佐藤・藤山連合を抜ける」と確信した。
佐藤派では保利茂も岸信介も名簿を点検した結果
「どうやら十四、五票差で池田に勝てる。決選投票で逆転勝ちできる」と算盤を弾いた。